| 歴史学通信 Vol.22 (1998/7) |
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小特集 古代出雲文化展
山内英樹
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1997年7月5日。いよいよ「古代出雲文化展」島根会場のスタートである。この日を私はずっと心待ちにしていた。というのも、高校生の頃からの夢であった神庭荒神谷遺跡出土の大量の青銅器群が間近で見られるからであった。前日は興奮がピークに達し、なかなか寝つかれず、夢の中でも銅鐸の音色が響いている感じであった。
そして当日、入場券を受付に渡し、入口に足を踏み入れると、黄金に輝く青銅器(復元)が吊られており、その光景に驚く間もなく、今度は奥のスペースに、ぎっしり並べられた青銅器群があり、再び私の目は釘付けになった。中央には加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸が鎮座し、その周囲には荒神谷遺跡出土の358本の銅剣、銅鐸、銅鉾や、県内出土の青銅器が、出雲の「青銅器文化」を象徴するかの如く展示されていた。その中でも特に、「銅鐸」というものを眺めていると、この島根へ来てからのことが頭の中に浮かんでくる……。
考えてみれば、私は高校生の頃から「銅鐸」に対して異常なまでの興味を持っていた。図書館や書店に行っては、銅鐸関連の記事や著書などを読みあさり、写真を眺めては「ぜひ本物を見たいものだ……。」と、想いだけが古代へと馳せていた(ちなみに、我が郷里では銅鐸の出土例は知られていない)。その後、何かの縁あって島根大学に入学し、あの夢にまで見た荒神谷遺跡を訪れることとなった(50回以上は行っただろうか……)。また、考古学研究会に所属し、先輩方と県内の遺跡を見学したりして、銅鐸のみならず、様々な時代の遺跡に触れることもできた。ただ、入学当初から私は、「出雲から必ず大量の銅鐸が出てくる!!」と、根拠もないのに変に自信をもって言っていたので、よく先輩方からは、からかわれていた。ところが、驚いたことに、この変な自信が的中してしまったのである。96年10月14日、あの加茂岩倉遺跡で……。さらに、大学近くの西川津遺跡でも……、と、次々に銅鐸が発見され、瞬く間に出雲は「銅鐸」一色に染まってしまい、全国から注目を浴びることとなった。今になって考えると、自分はつくづく運が良かったんだなあ、と感じてならない。ひょっとすると、自分が銅鐸を呼んだのかも……なんて馬鹿げたことまで考えてしまう……。
そんな想いに浸りながら、青銅器のゾーンを抜けると、次には、島大考古学研究室が主体となって発掘調査を行った、西谷3号墓を中心とした展示、さらには古墳時代の出雲のゾーンへと、見る者を更に引き寄せてゆく。また、観覧者も、学生や研究者のみならず、小学生からお年寄りの方まで、幅広い年齢層の方が観に来られていて、改めてこの展覧会の注目度の高さが感じとれた。
このように素晴らしい「古代出雲文化展」ではあったが、1つだけ私が気になった問題点がある。それは、荒神谷遺跡出土の大量の銅剣の展示方法である。観覧者の中から、「今ひとつパッとしない。」、「ただ並べてるだけでつまらない。」という声が漏れていた。また、西谷3号墓の復元墳丘模型や加茂岩倉遺跡の銅鐸の前では、多くの人が立ち止まって見ていたのに対し、銅剣の展示の前は、足早に通り過ぎていくのである。確かに大量の銅剣は、見る者を圧倒し、好奇心を掻き立てるが、逆に大量であるがゆえに、見る者を疲れさせ、退屈させてしまうのも事実である。もう一工夫欲しかった部分であった。
結局私は、大阪会場も含め、計12回「古代出雲文化展」へ足を運んだことになる。友人からは、「そんなに行ってどうする?」とも言われるが、何度見ても「銅鐸」は違う輝きを見せ、違う音色を発しているように「銅鐸おたく」の私には感じるのだ。今回の文化展は、「銅鐸に会いたい……」という私の夢を叶えてくれた恩人であり、今後は、この恩人に恩返しができるよう、より一層、「古代出雲」の放つ音色に耳を傾けていきたい。古代のロマンは、まだこの出雲という土地に眠っているはずである……。
やまうち・ひでき――法文学部文学科地域社会専修3年(文化人類学)。
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(C)島根大学『歴史学通信』編集委員会,
1998
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