歴史学通信 Vol.16 (1992/3)

 
 
《特集》
改めて御土居を考える

 
 
  我々がこの三宅御土居保存運動について知ったのは、大学祭の局員として活動していた谷本君の口から出たのが最初である。彼も別の研究室から局員として活動していた女性から聞いたのであった。恥ずかしながら歴史を専攻しているにもかかわらず、我々は三宅御土居のことを全く知らなかったのである。
  それから谷本君を中心としてT回生の間でこの件に関して話し合ってみようという雰囲気が広まった。研究室で話し合いを持ったり、時には教官や上回生のの方から話を聞いたり、様々なシンポジウムに出席したりと色々運動を行ってきた。いろいろ活動してきたが、我々が当面の目標としていた“保存運動に対して自分の意見を持つ”という事が達成できたかどうか否かは疑わしい。しかし、このような雰囲気が研究室に再び流れ出したというのは、一歩の前進だと思う。今後もこのような空気を保ちつつ、この運動に対して我々なりに対処していきたい。
 
 

三宅御土居保存と私
 

  私が“三宅御土居”について知るようになったのは大学祭実行委員として広報で働いているときに、たまたま保存問題に参加している方に話を聞いたのが切掛でした。入学式の時に頂いた歴史学通信第十五号に目を通していれば知っていて当然だったのですが、恥ずかしながら事実はこんな有様でした。
 

  これを機会に一回生の有志数人で話し合いの場を持ち、上回生の方にも参加してもらった所、「保存運動に参加するには先ずその遺跡の大切さを良く学んで認識を深め、一般の人々に『何故守らなければならないのか』、『遺跡にどのような価値があるのか』を聞かれて答えられるように自分の意見を持てるようにすることから始めなければ」と教えられました。なにがなんだか分からなくても兎に角、運動に参加すれば自分の考えも進歩するのでは、と漠然と思っていたのですが、いわれてみればなるほどその通りのことなので、早速、井上先生にご多忙の中、無理を言って時間を割いてもらい御土居について講義して頂きました。御土居が日本でも数例しか残っていない中世城郭の完全な遺構であること、御土居を中心に中世の町割が現在も残っていること、千巻にもおよぶ益田氏古文書と三位一体の史跡として捉えるべきであること、このような中世史跡に恵まれた環境は他には見あたらず、大変価値あるものだということが理解できました。以上、このように書くと積極的に活動したように思われるかもしれませんが、実のところは保存と開発という現実的な問題に対して、私の出身が田舎であること(多少の犠牲を払っても町が発展すればとの思いがあります)、昔、四ヶ月程遺跡発掘のアルバイトをした経験から、特別な場所でしか出ないと思っていた遺跡が町のココソコで出土しており、発掘現場の数の多さを知ってからは、それまでのようになにがなんでも保存との気持ちになれず“難しい”の一言でお茶を濁していたような状況です。二度にわたる先の会合でも、私のそのような宙ブラリンの心構えでは確固たる方針もなく、呼びかけても活発に行われず、低調なものになってしまっているのが現状でした。
 

  一度、現地も訪れ、御土居を実際にこの目で見てみようと話し合いながらも、車で三時間強もかかる益田ということもあって、話が進まないでいた所、三回生の西山さんが連れていって下さると言われたにもかかわらず、日時の打ち合わせ日に寝坊(昼休憩に集まる予定でしたが)してしまい、折角の御好意を無にしてしまう形となり、自分の態度の腋甲斐なさに嫌気を覚えていました。しかし、幸い十二月末に奈良女子大の村田先生をはじめ、著名な先生方の講演会と現地説明会が日本歴史学協会、日本史研究会、中世城郭研究会等の十学会連合で行われ、この機会を利用して現地を訪れることができました。
 

  論文等を読んで重要さは分かっているつもりであったにもかかわらず、御土居を初めて見て思った事は、正直なところ、私に保存運動を教えてくれた方が『小さな頃から遊んでいたが、遺跡と思ったことはなかった』と言われるのも無理はないと思えるものでした。部分写真等でかなり宅地化されていることは知っていたのですが、御土居の内部と思われる範囲(東西一八〇メートル、南北九〇メートル)には泉光寺さん、お墓、住宅二十軒程が立ち並び、すっかり生活の場と化していました。拡張道路は遺跡の両側のすぐそこまで出来ており、現在ある四メートル幅の市道は近くに益田商業高校があるからなのか車もちょくちょく通っており、道路建設推進側が、「何故車道を広げてはいけないのか」と言うのも一理あると感じました。実際に現地を訪れれば、中世へ誘ってくれるような雰囲気を期待していた僕のミーハー的意識は大人気なかったと痛感し、歴史を専攻する者として失格かなと思ったりしました。
 

  私は今年の一月にも同回生の中木君と益田を訪れ、“遺跡保存”“道路建設”両派の話し合いの場を持とうとの意図で行われた集会に参加しました(自治会〈建設派〉会長は欠席)。集会は歴史文化を中心とした街づくりの専門家である呉工専の佐々木先生、個人的な立場でということでしたが建設省にお務めの浜谷氏も参加して下さり、御土居から歩いて数分の妙義寺で車座になった話し合い易い雰囲気の中で進められました。この席上で僕が感じたことは、御土居のある地域が旧城下、かっては栄えたものの中心地が駅前付近に移り地盤沈下してしまっている、どうにかしなければとの意識を、両派というか住民の皆さんが強く持っていること、道路拡張工事推進派の人達も、遺跡などどうでも良い、破壊してしまえと短絡的に考えているわけではないということでした。話題の中心となったのは、道幅を拡張しては御土居が国の史跡に指定されなくなるのかどうかということでした。観光として考えると、やはり国指定と言うネームバリューは必要との考えからです。さらに、もし史跡に決まったならば現在御土居の上に暮らしている人達は立ち退かなければならないのか、発掘調査と言うが御土居内は泉光寺さんの境内ということもあり四百軒もの檀家の墓があり、これを掘り返されるのは心情的に嫌である等の意見が出ました。又、両派にわかれて狭い街の中でにらみ合い揉めるのは懲り懲だ、御土居などなかったらよかったのにと迷惑がっている人がいることも感じ取れました。高架道路にして御土居の上を通し、保存・建設を両立させようとの意見も出、僕もそれが最善策ではないかと思っていたのですが、浜谷さんは遠回しながら、実現は難しいとの旨を言っておられました。後日、田中先生に「僕も高架を架けるのが最善策と思っていました」と洩らしたところ、「道路を通す場所は他にもいくつもあるのに、遺跡を破壊して道を通そうとする問題の根本を忘れてはいけない」と教えられ、自分の文化財に対する考えの甘さを痛感させられました。
 

  四ヶ月の間、三宅御土居の問題に折に触れて参加してきて、自分なりに進歩があったのかと振り返ってみると、文化財というものはただあるだけで良いというものではなくて、“地域の人々が誇りに思い守っていく中で、初めて真の文化財となり後世に残されていくものである”と、考えが深まってきました。今回の問題も市の文化課が最初建設にOKを出した出さなかったとのことがあったとも聞きます。地元の人々が御土居がそんなに歴史的に重要な物とは知らなかった、専門家の人々が歴史教育の内でもっと取り上げてくれていたら、との声も話し合いの中で出ていました。文化課にしても教師にしても私の将来の進路の一つとして可能性の大きいものだけに、これからもこのような運動に参加し、考えを深めていきたいと思っています。
                                          文責・谷本 晃敏(T)
 

保存運動経過報告
 

  八十九年七月より始まった“三宅御土居”の保存運動も今年で三年目を迎えました。一昨年の発掘調査に続き、第二次発掘調査が昨年十一月より約一ヶ月に渡り行なわれ、御土居の規模を確認する部分的調査である性格上、発掘自体は小規模なものでしたが、新しい事実もいくつか明らかにされています。
 

  にもかかわらず、益田市長はあくまで御土居の上に今ある四メートル幅の道路を十二メートルに拡張する、発掘は今回をもって打ち切るとの発言をしています。この道路の拡張は昭和五十八年の大水害の災害を繰り返さないようにと、水害に強い町づくり、その一環としての避難道整備であります。しかし、再三指摘されているように整備道となりうる道路は他にも多くあるのに、よりによって県指定文化財である三宅御土居上の道路を拡張し、貴重な文化財をみすみす破壊してしまうような愚行を犯すことはないでしょう。計画段階でのミスを認め道路計画を変更するのが筋だと思うのですが、市当局の姿勢に変化が見られない事は大変残念な事です。
 

  保存運動は現市長(九十二年四月任期切れ・退官)の強硬な態度からの危機感や次期市長になれば変化があるのではとの期待感から今年度中が大きな山場と思われます。このような状況を反映して一昨年に続いて二度目の保存を求める署名運動が十一月十二日より益田市内で五千人、県内外で計三万人(前回一万六千人)を集めることを目標に始められました。又、運動も当初の道路計画凍結を求める段階から、御土居を中心とした中世益田市関係の史跡(雪舟庭園で有名な万福寺と医光寺・七尾城等)を歴史公園として整備して歴史文化の街づくりを進めようという建設的なものに発展しています。大まかに述べて保存運動の経緯は右の通りですが、詳しくは左記の表を御覧下さい。
 

  以上のように三宅御土居保存運動は盛り上がりを見せていますが、残念ながら、研究室としての積極的に参加することはこの一年ありませんでした。御土居に関連した活動としては、中世史ゼミが十一月・十二月の二ヶ月に渡り御土居を中心に、中世石見・益田氏を取り上げ認識を深めたことや、十二月に松江で行われた講演会、今回の発掘を踏まえての現地説明会へと、十数人が参加すると言う個別的なものに終わってしまいました。同じ島根県内とはいえ、車で三時間強の益田での問題ということもあり、気易く出かけられる距離ではありませんが、文化財の保存と開発についての考えを深める良い機会でもあり、又、県内唯一の総合大学の歴史学研究室という立場上、このような運動に参加するのは義務でもあると感じますので、来年こそは研究室として積極的に活動して行けたらと思っています。
                                        文責・谷本 晃敏(T)
 

文化財保存問題に触れて
宮田 健一(V)
 

  昨年末、益田市で三宅御土居跡発掘調査の現地説明会・講演会が行われ、研究室から数名が車に乗り合せてこれに参加した。この時の感想と、その他感じた事について以下書くこととしたい。
 

  説明会当日は予想以上に人が多く、しかも年配の方から中学生くらいまでと幅広い年齢層であり、市民の関心の高さが窺われた。また発掘された遺構は予想以上に立派なもので、視覚に訴えてくるものであった。部分的な発掘だけでこれだけの成果が得られるという事は、主要な遺跡についてはある程度の学術調査を行い、行政がその遺跡の内容を正確につかむ事の必要性と、それにより未然に遺跡破壊を少しでも防止できる可能性を示していると思われる。然しながら、現在の過剰な開発のもとでは行政にそれだけの余力がないというのが実情であろうか。
 

  ところで、こういった保存運動には署名は付きものである。かって私は、歴史とは全く関係のないゴルフ場反対の署名をただ何となくしてしまった経験がある。そして後に、ある人から「賛成、反対の二つの意見がある、自分の名前を書くというのはもっと責任を持つべきである」と強い批判を受けた。確かにそれが理想であり、署名を頼む場合や、歴史に関するものである場合には、両者を正確に把握し、安易な行動は避けるべきであろう。しかし、この理想を全ての一般の人にまで押しつけるわけにはいかない。そこで私は、署名というものは理解が得られれば幸い、一般の人々にそういう問題があるという事を知ってもらい、後に関心を持ってもらうだけでも意味があると理解している。
 

  文化財保存に接していて誰しも感じた事があるのかもしれないが、私自身これは研究者のエゴにすぎないのではないかなどと疑問に思った事がある。しかし、これを吹き飛ばしてくれたのが、ある教官の言葉であった。歴史に対する評価は、その時代に生きる人の解釈であるといった内容は、世の中にたった一つしかない歴史を語る証しとしての遺跡を守らなければならない必然性を感じる。でもこれを地域の多くの人々に理解してもらうには、もっと具体的な即効性のある形にしなければならない大変さと同時に、根本は学校の歴史教育で地域社会に結びついた問題を取り上げる必要性があると感じる、等々、文化財保存問題に触れての雑感である。
 

  益田市七尾町の妙義寺における史跡を生かした町づくりの交流会に参加し、第一印象はやはり高齢者の方がほとんどで、今後益田市を発展させていかなければならない少年達が積極的に参加すべきではないかと思った。そして交流会を終え、地元の方の考えを聞き、住民がどのように三宅御土居を認識しているかがよくわかった。自分の思ったように、やはり住民はよく三宅御土居の重要性を理解していないという話だった。それは一つに各家庭における教育に問題があるのではないかという専門家の話があったが、昔から家庭において自分達の住んでいる所で、何が価値があるものでどのような人物によって形成されたかなど、もっと浸透していなければならなかったというものであった。また学校教育においてどのように遺跡の重要性を教えればよいかという問題も出たが、あまり地元の先生の話は今後につながるものではなかったようで、教育者ももっともっと理解を深め、地域の発展に貢献するようでなければならないと思った。
 

  また、三宅御土居を直接見て率直に感じたのは、道路建設上非常に今、通行が危険で学校の登下校にも使われており、いつ事故が起きてもおかしくない状況であったのでびっくりしてしまった。もっと道路が拡幅されれば、間違いなく交通が便利になり、生活しやすくなるのであるが、私の考えではここでこのまま史跡を破壊してしまったら、住民の団結力などみじんもなくなり、若者はどんどん都会に出てしまい益田市は衰退の一途を辿ると思う。
 

  そこで住民が一致団結して、遺跡の重要性を理解し、外部にもっと御土居を宣伝し観光の見所になるようにしていかなければならないと素直に思った。
                                       文責・中木 信夫(T)
 
 
 

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