歴史学通信 Vol.14 (1990/3)

 
 
特集  文化財保存
歴史学通信特別企画
―旧日銀松江支店ビルの保存とその意義をめぐって―

 
 
はじめに

  歴通第14号企画会議にて、某K氏が、「今、文化課分室のある旧日銀ビルが取り壊されているらしいんよ、それを保存しようとする動きがあるらしいから、これを取材しようや」と、言ったことがすべての始まりだった。某K自身、具体的プランを持っていなかったのであっさり採用されてから大慌て。どこに取材に行けばよいかも全くわからず、とりあえず渡辺教官の所へ「旧日銀」に詳しい人を紹介してもらおうとドアをたたく。運よく森口保氏という人が詳しいということを御教授いただき、喜喜として早速電話し、講演会という形式で企画を進めて行くことになった。
 

  余談になるが、打ち合わせの時ちょっとした偶然があった。それは…某Kと編集長が打ち合わせの電話をした時のことである。森口氏が、電話で打ち合わせというのはやりにくいとおっしゃり、こちらがどうしようかと悩んでいた時である。
「下宿どこ?」と聞かれ、
「はあ、モスバーガーの裏です。」
「じゃ、近いね、僕の家は◯◯という所の隣だよ。」
某Kはその◯◯というのを聞いて、吹き出しそうになった。それは、◯◯さんというのは某Kの下宿の大家さんで、Kの下宿の向かいでなのである。
「それじゃ本当に近いですね。ほとんど向かいですよ。」
と、笑いを必死でこらえて答えた。さすがに森口氏もその近さに気づかれ、笑い声で、
「それじゃ僕の家で打ち合わせしましょう。おいでなさい。」
某Kと編集長は腹を抱えて笑い転げたのは言うまでもあるまい。まさに「灯台もと暗し」であった。森口氏宅にあがりこみ、ビールとつまみを囲んでの打ち合わせですっかり打ち解け、打ち解けすぎて肝心の打ち合わせを忘れてしまいそうだった。
 

  話題を戻してと。以上記したように某Kと編集長の行き当たりばったり的展開にもかかわらず、後期の歴通主催の「旧日銀ビル保存とその意義をめぐって」と題した講演会が開けたことは、森口氏をはじめとした人々が企画を成功させようとしたからではないだろうか。
 

  講演会を御紹介する前に、森口保氏の御紹介と講演内容と本会の趣旨の説明をしておこうと思います。
まず、講演者としてお招きした森口保先生は、島根県工業技術センターの次長をしておられ、産業考古学会の会員としても産業遺跡、遺物の研究保存に広く御活躍されています。現在、旧日銀松江支店ビルを語る会にて、様々な保存運動を推進されておられます。講演内容は@日銀松江支店の歴史A建築的価値B景観C保存と活用D保存運動の経過と展望(順不同)といったことで構成されています。また、主旨は、現在のマス・メディアによる異常な程の古代史ブームに対する疑問から、文化財保存は何も古いものだけではないはず。近代以降の遺跡二も文化財的価値を見出し、真の文化財保存のあり方について少しでも近づこうということです。
 

  7月15日 法文等11番演習室にて講演会を開きました。当日は、教官、学生合わせて、16名の参加を見ました。
では、支離滅裂、本末転倒な文章ですが、この企画のはじめにしたいと思います。後記の講演を是非御一読願い致します。
(文責 某K=河村) 
以下、森口保先生の講演内容です。
 

保存運動の経過
 

  旧日銀問題は、そもそも県庁周辺の整備計画が進んでまして―これは極秘資料だから外に出すなと言われていますが―貰ってきましたのによりますと、県庁その他をどんどん移動させて、あの界隈を再整備しようということでしてね。行政効率を上げるとか、住民サービスをするとか、いろいろ問題が起こっています。そういう中で、旧日銀をぶっ壊して、そこに壮大なビルを建てようという計画が起こってまして、そういう所へ、たまたま川津公民館報に中村市長が、市町村が参加している自治会館を速やかに建てたいということを言ったそうです。そのことを友達に言うと、それは大変な事になった、なんとかしなければならないということになり、保存しようという動きになりました。それではとりあえず、皆さんに配ったコピーの文章を山陰中央新報に載せて貰いました。それ以来、運動というと大袈裟ですが進めていきます。
  そうした中でいろいろな論議をしながら相談しているんですが、旧日銀という建物は、あまり入ったことのない人も多いだろう、また、見たいという声もありまして、それで県と掛け合いましたら、なかなか公開してくれず、再三お願いしまして4月29日に11時から3時まで時間厳守という条件付きで、見学させていただけるということになりました。それでも300人という人々が来られました。
  また何も会がないのでなんとかしようというところへ、たまたま、京店商店街の活性化運動というのがあり、所謂、街作り運動です。その中へ飛び入りさせてもらおうと交渉した結果、大々的に協力しましょうということになり、我々の方で、今の旧日銀は、あれは2回目の建物なんですが、最初の建物、今の建物、或いは、県外の近代の建物の写真を見せまして、ショウウィンドーを使って写真展も期間中に行ないました。
  また、その時、何とか旧日銀の建物を皆さんに見て貰おうとあれこれ考えた結果、晩にこれをライトアップしようという話しになり、商店街に頼みに行ったり、中電に頼みに行ったり、して、それで今、毎週土曜日にはライトアップされている筈なんです。まだ土曜日がバタバタして見に行ってはないんですが、皆さんに知って貰うのが一番ではないかということで始めてみました。
  一方、建築学会の方も、あそこは近代建築に関しての調査を結構やってまして、検討いただきまして、知事宛に保存要望書を出して頼みました。
  そういうふうなことが今までの経過のあらましです。今のところ見学会・ライトアップ等をやってきたのですが、後、どういうふうに進めたらいいかなど、まさに暗中模索の最中ですので、今日の話しの後でもいいアイディアがありましたら教えていただきたいと思います。それで、今、計画に挙がっているのは、跡の利用の問題とか、どういうふうに保存したらよいかというふうなアイディアコンペをやろうじゃないかということを計画しています。ただ、賞金を幾らにするか、どういうふうな募集をしたらいいか、経費の問題も絡んでくるので、ひとつ気長にやろうと思っていますし、それはしっかり実現したいなあと思っています。
 

若い者も年寄りもいる街 
 

  近年、いろいろな面で、芸術的な建造物にしろ、或いは他の遺産というか、そのようなものの保存、或いは再生という問題があちこちで起こってますけれど、我々が考えるところによると、普通、住んでる人間を見ていますと、別れ道の一本杉であろうと、お地蔵さんであろうと、とても懐かしいし関わりのある存在でしてね。日常生活の中で知らず知らずのうちに大きな位置を占めているんじゃないかという気がします。
  そんな歴史的遺物が簡単に近年どころか戦後から、便宜性だとか経済的効率だとかいうことだけで論議され、まともに評価せずにぶっ壊してゆくという現象は枚挙にいとまないわけです。そういう心情的なものは経済効率みたいなことのように簡単に価値づけということがしにくいという問題がありまして、説得力がないわけです。例えば、旧日銀のところへ10階建てが建つということは面積が10倍になるわけです。そうすると、街の中にそれだけの土地が得られないのだから有効に利用するのが結構にはちがいないのです。
  しかし、住民の方からゆきますと、暮らしの中に根付いたとり立てて毎日意識しないにしても、心の有り様というものと深く関わっているものは、これこういう理由で存在しなければならないという説明は非常に難しいという悩みがあります。そういうことで、効率性の問題で片付けられ易いという気がします。
  しかし、一方、そうは言いながらも生活を展開してゆくために、街や村の中にそういう歴史的遺産が調和して生活することの意味は、評価しにくいですけど、大変重大な意味があるんじゃあないかと思っています。この前も旧日銀の見学会をした時に、お年寄りもたくさん来られて、いろいろな話しを聞かせていただき、或いは、日銀に勤めていた女性が、わざわざこの日に10数人集まっていろいろな話しを聞かせてくれまして、当時の日銀の中での生活の様子とか、使われ方とかいうことを知るいい機会だったと思います、
  事の最後に、 経済問題だけで片付かない評価の中で運動を展開するのは、大変苦しいことがあります。けれど、そういうふうなものを街に取り込んでゆくという生活自体が、やはり今、世の中右向きも左向きも文化的な暮らしである、大変貴重な暮らしである。まして松江市は国際文化観光都市という表題をかかげまして、何が国際で、何が文化か分かりませんけど、市長さん以下、甚だしきポスターにまで書いてあります。僕はそのポスターを見てよく思うんですが国際的になりたい、文化的になりたい松江市というふうにね、補充した方がいいんじゃないかと思います。なんか国際都市・文化都市が出来上がっているような気がするんですね。それで、なんか文化的都市に住んでいるのかなあと思って新聞を見ますと、あまり文化的でもないと…、そんな気がします。だからあれは、注釈を付けた方がいいかなあ。そんなふうな松江ですから、是非ともそういった面から行っても旧日銀のみならず、他の建造物・遺跡の保存にはよくよく吟味して進めて貰いたいという気がします。
  やはりそういう面からいくと大変評価しにくいけれども、特に生活の環境というのは、年寄りもおれば、青年もおると、そういう中で建物にしても他の物事にしても、古いものと新しいものが混在している中で生活するのが、僕は文化的じゃないかなあと思います。人間というのは、明治・大正・昭和と時代時代にいろんな営みをしてきたわけでして、そういうふうなものを考え、思い巡らせて、足がかり手がかりになるものがあってこそ、街に意味があるんじゃないかなあ。潤いのある街としきりにこの頃言いますけれどそういうふうなところから言っても、是非残して欲しいなあ。他の保存問題が各地で起こってますけれど、大体そういうふうなものが底流にあると思います。
  だからそいうふうな市民・住民にとっての意味、それからまた、それらをとりこんでですね、新しい都市の計画というふうなものを展開しないと、なんかぶっ壊しちゃってそこに新しいものを造るのは都市計画でもなんでもないわけで、と言いますのも先程から何度も言いますように、この年寄りもおる、若い者もおるというふうな暮しをしている―そういうふうな歴史を抱え込んで我々は未来に向かっているわけで、そうした場合、都市だってそうあるべきじゃないかと言うふうな気がします。例えばですね、人工衛星に乗ってどこかの宇宙へですね、生活しようというのだったらゼロから出発するのですから、そう気を使わなくてもいいような気がしますね。また、ブラジルでブラジリアという首都に移転したことがあって、最近、大分、人間らしい街になってきたという話しを聞いていますがね。ああゆう荒野にですね、首都をポーンと移動させる場合では、いろいろな計画は文字どおり白紙に設計図を書けばいいという気がしますけれども、やはり、そういうふうな所で、本当に人間らしい生活ができるのかなあとなってくると、ちょっとこれは見逃し難いんじゃないかというふうな気がします。筑波に学園都市が出来て、今だに自殺者が多いという話があると、あそこに行く度にどこに一杯飲みに行くか分からない街です。 まあ、恐らく、かなり人間らしい生活ができないんじゃないかなあという気がします。
  やはり、街というものが、最近、所謂アメニティだとか、いろんな街だとか、やはり、そういうものを抱え込んでの都市の計画、設計というか、環境造りというものをやって欲しいなあという気がします。
  そういうことに絡んでですね、たまたま政府が、1977年に定住圏構想を中心にして、第3次全国総合開発計画(3全総)というものを発表しまして、その中に初めて歴史的環境保全というものを取り上げて、これは立派なことだなあと私は思うのです。それが第4次の計画が発表された時は、そういうことはどこへやらに飛んでしまって心もとないのですけれども…、その3全総の中に、「この計画の基本的目標は限られた国土資源を前提として、地域特性を生かししつつ、歴史的伝統文化に根差し、人間と自然との調和の取れた安定感のある健康で文化的な人間居住の総合的環境を計画的に整備することである。」と難しいんですけれども、こういうことを書いております。偶然相前後して、国際居住年という行事もあったことと絡んでいるんじゃないかなあという気がしますけれども、そういうふうな立派なことが目標として掲げられておりまして、その中にですね、「単に指定文化財に限らず、これらと一体となって形成されてきた周辺の環境、指定文化財ほどの重要性は有していなくとも地域の人々の生活や、地域の中での祭りや年中行事等と意味を持っているもの、更に、それらの舞台となった環境などの地域の文化財、並び遺跡、遺構等、自然の中で残っているものを包括して、一体の環境を構成している民族の軌跡の総体である。」というふうなことで歴史的環境というものを説明しております。それから、「本来、住民の自主的関心の高まりが、地域の空間と歴史を共有するという形で保全されることが重要である。従って、地域の開発に当っては、歴史的環境の保全が開発の価値を高めるものであるとの認識の上に立って、再評価を行ない、その活用を図ることが必要である。」という立派なことが書いてあります。この中で、歴史的環境の保全が開発の価値を高めると書いてありますね。これが要するに、都市計画などに歴史的環境を評価し、取り込んでゆくということじゃないかと考えます。そういう意味で、この3全総というのは非常に立派なものだと思います。
 

旧日銀松江市店を巡る歴史
 

  日銀が松江に店を開いたのが大正7年です。古い日銀の建物が、これも立派な建物ですが、同じ場所にあったんですけれども、施工が悪くて地盤沈下して傾いたりして、それで新しく昭和13年に落成したのが今の建物です。
あの界隈は、要するに旧日銀があり、それから今、影山呉服店がありますね。そこが旧第三国立銀行―あれは土蔵造りの建物です。それから、今井書店の方に向かって橋を渡って東側に合銀北支店というのがありますね。これが旧八津川銀行本店、それから、反対の角に “VISA ”看板があがっている所が旧島根貯蓄銀行本店、それから今、駐車場になっている辺りに、運陽実業銀行本店。それから先年潰されました県庁前の官業銀行とかね。今はセンチュリービルになってますけれど、そういうふうにあの界隈というもの自身が、いうならば、松江の“ウォール街”と言ってもいいくらいの銀行群があり、尚且、今だに第3銀行跡、八津川銀行跡等等ありまして、あの界隈の景観になっているわけです。そういうふうな場所で、その開設当時のレンガ造り、ルネサンス様式の日銀があったのですが、先に言ったようなことで建て直しということになりました。
  そして、建て直された日銀の建物は、長野宇平治の設計です。明治に日銀本店の設計をした辰野金吾に、東京大学の前進である工科大学造家学科で学び、その時日銀の設計に携わったのが、銀行建築に携わってゆく最初になるんです。辰野金吾はこの他に東京駅など手掛けました。余談ですけど、フランス文学の辰野隆というのが辰野金吾の息子なんです。
  長野宇平治は、慶応3年、新潟県上越市で生まれまして、工科大学に入りました。予科部で夏目漱石とか正岡子規と同期なんです。彼らは文化的な所に進み、長野は今でいう工学部へ進んでいった。彼は建築を、特に銀行建築をですね、たくさん手掛けてきております。この近辺でも、岡山の日銀とか、まだ調査がちょっと不十分ですが広島支店の方も長野設計だということになっております。彼は後に、建築土会の会長さんになったりして建築の勃興に務めたわけです。
  松江支店は、鉄筋コンクリートの地下1階地上3階の建物ですが、長野宇平治は、昭和23年に完成を見ずに亡くなられたわけです。銀行建築を手掛けてきた長野の最後の作品になろうかと思います。
  それから一方、銀行建築も他の建築もそうですけれど、最初はレンガとか石造りとかいろんな形で、日本の近代建築が始まるわけです。それから今度鉄を使い出して、次に鉄筋コンクリートになるというのが大体の粗筋ですね。日本で最初の鉄筋コンクリートを使った建造物は、田辺朔朗の琵琶湖疎水です。これが明治36年。明治40年代になりまして、ぼちぼちと実用され始めたんですが、構造計算が当時確立されていなかったのでなかなか普及しませんでした。大正期を通して計算方法が確立され始め、昭和8年に建築学会が鉄筋コンクリートの構造計算の基準を作ります。松江の日銀は13年建築ですから、その構造計算に基づいているという意味からいっても意味があろうかと思います。そのため、建築学会からも、建築の歴史上、非常に貴重であるから、保存して欲しいという声が起こっています。
  だから最初、紹介の時にいろいろな意味の保存が起こっているという話も出ましたけれど、近年の保存の取り組み方を振り返って見ますと、昔は点的だったものが、面的に深まってゆくという経過があります。そういう中で文化財への取り組み方というもの自身が、明治以来いろいろ、なされてきたわけです。明治の初めに廃仏棄釈というものがありましてね。明治維新の、古い建物をぶっ壊したいという嵐の中で最初に取り組んできたのは、古器旧物保存課を調査機関として設立しました。これが1871年。それで、88年になりまして、宮内省が臨時全国宝物取り締まり局を創りまして、それで、例の岡倉天心、所謂岡倉覚三らが調査官になって調査をはじめ、国宝的なものを保存しようという動きになりました。そういう中で、日清戦争が始まって、古社寺保存法が制定されました。その中で、国宝・特別保護建造物指定ということになってきました。大正時代に入りますと、今度は逆に、その古美術品がずいぶん海外に流れてゆく中、それじゃあ困ったことだということで、昭和になって国宝保存法というのを作って、国或いは個人の所有物を対象にその輸出を禁止するということになりました。そういう中で戦争が始まったわけですけれども、それで戦争中に空襲で大事なものが、どんどん破壊されてゆくわけですけれども、昭和18年(1943年)に国宝重要美術品の防空施設整備要項というのができて、重要なものを田舎へ移して、皆さんは若いですから分かりませんけど、疎開という言葉がありますように人間でさえ引越しした時代なので、国宝なり重要美術品なりというのを長野県の方へ持って行ったりしたわけです。敗戦後、1949年に法隆寺の金堂壁画が失火により焼失してしまい、これは大変なことだということで1950年に文化財保護法というのが出来まして、無形文化財とか有形文化財とか、或いは民族資料・記念物という項目に分けて再検討されました。これが明治以来の文化財行政の粗ましです。
  一方、建物などの場合、昔は法隆寺とかそういう特定の社寺仏閣というものを対象に保護されてきたわけです。しかし、だんだんと時代が下がってきてはいますけど、今だにあまり明治期以降のものについては大事にされてはいません。今はもうなくなりましたが。皇居の近くにレンガ造りの三菱一号館というのがありました。立派な建物でしたが別の建物を建てるために昭和43年にぶっ壊されてしまいました。個人の持ち物といってしまえばそれまでですけど。
  昭和50年になりましてね、保護法を改正しまして伝統的建造物の保存ということまでも、項目に挙げてくれるようになってきました。また一方、そういう中で、周りの学者にしろ住民の心ある人々が、保存運動というふうなもので随分あちこちで声を上げるようになってきました。それでぶっ壊しを免れるというふうなことになってきました。だから今、全国各地で歴史的な街並みの保存や再生、或いは建造物や遺跡の保存運動とかいっぱいやってましてね、例えば鎌倉なんかでも住民運動が起こって、古都保存法を作って守っています。それから奈良の橿原の場合でも保存運動が起こっています。島崎藤村じゃないですが、馬籠・妻籠の宿場町。或いは京都の祇園・新橋・三年坂などの保存とかね。それから倉敷、神戸の異人館、飛騨高山の民家、萩の武家屋敷と、もう北は北海道の函館から南は長崎にまで、日本国中に今、展開しているわけです。しかし、そういうふうに展開はしてますけれど、惜しくも潰れてゆくものは枚挙にいとまがない現状です。
  そういった中で、大阪の中ノ島一帯には公開堂あり、図書館あり、日銀大阪支店もあるということで、これを保存しようという運動が起こっています。たまたま、それを朝日新聞がバックアップしましてね、「中ノ島公開堂赤レンガ基金」という記事が、朝日新聞に載っています。それで全国から募金を集めようと運動してましてね、その募金を大阪市に寄付して保存しようということになってます。相手が新聞社ですから大々的に紙面に載せまして、こうゆうチラシを作って振り替え用紙に付けて、一口千円という募金運動もやってます。そういうふうに考えれば我が日銀も簡単なんですけれども、そういうわけにもいきません。
  以上で旧日銀の粗ましの話を終わりたいと思います。とりとめもない話で申し訳ない。

「旧日銀松江支店ビル保存問題」についての感想
浅 野 恵 子 (V)
 

  歴通の企画ということで、「旧日銀松江支店保存問題」についての講演会に参加したわけですが、この講演会に参加するまでほとんど何も知らなかったので、「保存運動」と聞いて、少し身構えていたのでした。しかし内容は「旧日銀ビル」の歴史から、建築様式の説明、さらに全国の文化財保存運動の様子など幅広い角度からの話しだったので何も知らない私でも聞きやすかったように思います。
  それまで「旧日銀ビル」の存在さえ、意識したことがなかったのですが、街の中の当たり前だった風景がだんだんと姿を消して行くのは、少し寂しい気がします。
  「旧日銀ビル」の保存自体は、実際にまだまだ多くの問題をかかえているようです。しかし、街の個性や、「調和」のある町並みというものが、人が生活していく上で、、いかに大切なものかを改めて考えさせられる話でした。
  松江でも、どんどん新しい建物や、新しいビルなどが建っていくのを見ると、街の発展を感じると同時に、いつのまにかどこの街にいっても、同じような風景ばかりだった…ということになるかもしれません。仕方のないことかもしれませんが、その街にしかない個性と雰囲気というのは、何年たってもそのままであってほしいと思ってしまうのでした。こういうことは、失いかけてはじめて分かるのかもしれません。
  夜、京店近くを通りかかると、京橋川の向こうに、ライトで照らし出された「日銀ビル」が見えます。何か新しい風景を見たような気がしました。

「松江市に残る近代建築と町並み見学会」に参加して
藤 井 禎 (V)
 

  この見学会は、10月28日に「旧日銀松江支店ビルを語る会」主催でおこなわれた。趣旨は、旧日銀ビルを語るには、松江の町並みや他の近代建築のことも知っておく必要があるというものである。とはいえ、文化財保存という堅苦しい内容ではなく、知られざる松江の再発見とでもいうような軽い感じで楽しかった。(自分一人そう思っていたのかもしれないが)。
  松江駅から出発して朝日町の北陽日冷(株)や、しまね信用金厚、伊勢宮町の米江旅館等、明治から昭和初期の建物をいくつか見てまわり、今まで見過ごしてきた、ちょっと古い建物がかなり残っているのに気付いた。まわりを新しい建物に囲まれながらも、昔のスタイル、昔の雰囲気が未だに残っている。これらの建物は文化財として残されているわけではないので、松江の観光コースはなっていないだろうし、ガイドマップにも多分載ってはいないだろうが、その近所で生活している人には貴重な文化財ではなかろうか。いうならば“町単位”の文化財である。時代の古い・新しいが、文化財の価値を決めるのではないということを、自分の目で見て感じた。
  真面目な気持ちで参加している人を尻目に、ほとんどマニアの気分で楽しんだが、さすがに道行く人の怪訝な視線は恥ずかしかった。 
 
 

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(C)島根大学『歴史学通信』編集委員会, 1998
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