| 歴史学通信 Vol.10 (1986/3) |
| 西から東へ
橋本昌哉 |
| 昨年8月11日から26日まで、同僚3人とともにヨーロッパヘ行った。往復の飛行機(ポーランド航空)だけ団体、あとは御自由にという、『地球の歩き方』のフリーツアーだ。私たちはワルシャワで乗り継ぎ、フランクフルトにて西ドイツに入国。順調な滑り出しだったので、四人は予定どおり翌日ミュンヘンで解散、西欧各地でそれぞれの旅を楽しむことにした。ポーランドに入国しようと思う私とM君は、21日9時に東ベルリンのブランデンブルグ門で落ち合うことにしておいた。
■ ひとり旅となった私は、ミュンヘン中央駅から国電(Sバーソ2号線 Petershausen
行)で7つめ、30分足らずのダッハウというところに行く。電車から降りた様々な国籍の人々は同じ目的地のようで、駅前からのバスは2台が満員になった。バスで15分ほど、運転士がここだここだというように手をたたき、客は顔を見合わせながら下車する。私も含めてほとんどの人はこの地が初めてで、ドイツ語も解さないかのようだ。先を行く人の方向をたどると、はどなく強制収容所跡である。
ダッハウ強制収容所はヒトラーが政権を握って1ケ月余りしかたっていない1933年3月に創設、当初は5000人収容可能で反政府分子を対象にしたものであったがやがてユダヤ人やジプシー、聖書研究会員なども加えられてくる。収容所システムのモデルとして大きな意味を持っていたようで、アウシュビッツ強制収容所の所長となるへスも、ここで実務の腕を磨いた。ダッハウはアウシュビッツのような大量虐殺収容所ではなかったが、12年間に20万6000人の収容者が登録され(非登録者の数はもはや確かめようがない)、飢えや病気、支配者による気ままな殺人・処刑・実験などで命が奪われた(記録された死者は31951人)。1945年4月、解放された時には31ケ国30000人以上が詰め込まれていた。
今その跡地は記念舘になっている。入館無料、パンフレットは6ケ国語(日本語はない)で用意されており、勝手に取って30ペニヒ(約26円)を箱に入れる。独語版と英語版のあるカタログは18マルク(約1530円)で、こちらは人から買う。館内の展示は写真パネルを中心に、単に収容所の中の非人間性だけでなく、ナチス体制そのものを訴えるものだ。30分おきに上映される映画でだ。30分おきに上映される映画でも冒頭はヒトラー新首相に沸き返る国会議事堂前や”焚書”の場面だった。最も強い印象を受けた展示写真は、SSドクターによる生体実験、男性がガスか減圧かによって殺されてゆく組写真である。生から死への表情の変化――。
建物自体ははとんど残っていないが、収容棟が1棟(再建か)と焼場2棟、外周のへい・有刺鉄線・監視塔があって、門の鉄棚には「ARBEIT MACHT FREI」と刻まれている。記念館となった後に設けられたキリスト教会とユダヤ教会が一隅にある。小石の敷き詰められた跡地は清潔で(焼場でさえも清潔である)、かつて人間をのみこみ労働力と命を奪っていった場所とは思えないほどだ。 この記念館の財政はバイエルン州政府が取りおこなっている。ドイツ人の恥ずべき行為を、ドイツの公権力が展示しているのだ。過去に責任を持つことは現在と未来に対して責任を持つことである。 自らの誤ちを忘れてはならないとする西独に、健全な民主主義とヒューマニズムを見る思いがした。 ■ このあと私は、ニュルンベルク、アウグスブルク、”黒い森”のフライブルク・トリベルク・フロイデンシュタットと西独の南部を回り、北部の大都市ケルンと笛吹き男伝説の町ハーメルンを訪れ、20日深夜の列車でベルリンを目指した。東独に囲まれた飛び地西ベルリンへというわけで、2度国境を越えることになる。西独側の国境駅を過ぎると、西独の車掌が来て切符を見る。以下順に、西独の検査官がパスポートをチェック、東独の検査官がパスポートをチェック(通過ビザのスタンプを押すだけ)、東独の車掌が切符を見に来る。眠りたいのだが、うとうとしかけたころに調べに来る。
早朝に西ベルリンに着いてしばし歩き回った後(旧日本大使館は廃墟だが、それでも日の丸が翻り菊の紋章が金色を放っていた)、Sバーンで東ベルリンに入ることにする。西ベルリンから東ベルリンに入るには、徒歩等でチェックポイントチャーリーという検問所を通るか、Sバーンに乗って終点のフリードリッヒシュトラーセ駅から入国するかだ。西ベルリン一の繁華の地ツォー駅からフリードリッヒシュトラーセ駅まで駅にして4つ、15分足らずである。高架を走る電車は3つめの駅を出ると”壁”をまたぎ越す。フリードリッヒシュトラーセ駅ホームの階段を降りると検問所かあり入国審査だ。朝の8時半というのに大勢の人が並んでいる。国籍によってはいろいろ問いただされているのかもしれないが、私は「アイン・ターク」と言ってビザ料5マルク(約425円)を渡すとすんなりスタンプを押して通してくれた。このあと西独の通貨25マルクを東独マルクに両替(1日ビザの強制両替)して、手続きは終わった。
検問所の行列で思わぬ時間をくって遅刻してしまったがブランデンブルク門でM君と合流、近くのポーランド大使館ヘビザを取りに行く。ところがこの日(水曜日)はビザを発給しない日のようで、ダメだった。受付の中年男性と通じぬ言葉でやりとりしてもわかったのは「モルゲン」だけ。それにしても、一国の大使館の窓口にすわっている人が英語を知らないのは意外だ。ポーランドでの日数が減るのは残念だがまた明日来ることにして、東西ベルリンの名所旧跡を回る。が、歴史ゆたかなこの大都市を10時間ほどで見ようたって、うわっつらをなでるだけ。あまりいい旅の仕方ではない。
東ベルリンは、ショウウインドは簡素だし自動車は古くさい。食堂や喫茶店、本屋、アイスクリームの売店でさえ行列ができる。これは物が不足しているわけではなくて、店に入れる人数を制限したり売り手がさばききれないからだ。ならば、店や売り手の数をふやしたらよさそうなものだが、たかだか5〜10分の行列など優先して解消すべき問題として扱われないのだろう。そのかわり物価、とくに生活必需品や公共機関は安い。Uバーン(地下鉄)やSバーンの運賃は20ペニヒ(約17円)だし、カフェテリアで高いものばかりを食べても10マルクしなかった。それでいて平均所得が月1100数十マルク、結婚すれば住宅が与えられ(住居費は所得の5%程度)、30日の夏休みを取らねばならない、むろん病気・老後の福祉は行き届いている。
工業力では東欧諸国中ダントツだし、東独は社会主義が最もうまくいっている国だろう。東独のたいていの地域では西独のテレビ番組を受像できる。人々は資本主義体制の酸いも甘いも知っていて、現体制を受容していると言えるだろうか。
物価が安いのは結構だが、強制両替させられた25マルクの使い道に困った。持ち出し禁止だし、持ち出したところで東独マルクは値打ちがない。東の中で使いきってしまいなさいというわけで、社会主義国の優等生でも、西側の外貨を手に入れたがっているのだ。百貨店でかさばらない革製品をと思ったがよさそうなものはさすがに値が張る。で、本屋でベルリン(もちろん東だけ)と月世界の地図を買って帳尻を合わせた。
午後5時ごろ、フリードリッヒシュトラーセ駅からSバーンで西に戻る。またもや行列だ。この検問所を通るのは私たちのような観光客よりも、ふつうのおじさん・おばさんが多い。西から東へ肉親に会いに来た人たちだろう。「西から東への入国は容易だが、東独の人が西に行くのは厳しい制約がある」。朝は出迎えだが夕は見送り、別れを惜しむ光景が見られる。
西側からも”壁”やブランデンブルク門を見る。”壁”といっても1枚ではなく緩衝帯をはさんで二重になっており、間は野鳥の天国だそうだ。資本主義体制と社会主義体制との間に立ちはだかる大きな”壁”――眼前に見えていながらまっすぐ越えられない”壁”ではあるが、毎日多くの人がSバーンで越えている。”ベルリンの壁”を見た時はなはだ不謹慎なことを思った(それは帰国後ベルリンを舞台にしたスパイのニュースを知ってからも変わらない)。『ザ・デイ・アフター』ではまず両独国境から核が使われる設定だったが、次の核戦争は朝鮮半島だと……。 ■ 翌22日はフリードリッヒシュトラーセ駅の行列が前日以上だったこともあり、ポーランド大使館に入ったのは11時前となった。きのうは閉鎖されていたドアを入ると、待合室のようで10人ほどの先客がいる。見様見真似で用紙に記入する。待つこと1時間、ようやく奥から男の人が出てくる――やいなや、数人が彼を取り囲み早口でまくしたてる。猛烈な勢いではあるが、どう見ても陳情は通じていないようだ。やがて大使館員は冷たく奥へひっこむ。
これ以降は割とよく大使館員が待合室に出てくるが、それはビザを発給した人にパスポートを返すためだけであって、新たにパスポートを受け取りはしない。私たちも申請用紙とパスポートを手渡そうとするが、はねつけられてしまう。社会主義国家のお役所相手ゆえ時間がかかるのは覚悟していたが、書類を受け取ってくれないことには話にならない。館員は何度も現れては消え、いつの間にか部屋の顔ぶれも入れ替っている。館員が姿を現すごとに食い下がるが相手にされない。最後の切り札のつもりでワルシャワから成田までの航空券を示してもダメである(実は、フランクフルトからワルシャワまでの航空券も持っているのだが)。
待合室の人も減ってきた。こうなりゃ長期戦だ。館員が現れても気にせずすわり続ける。最後の2人になってからが勝負だ。3時になれば追い出すだろうから、うんと顔を覚えさせておいて、あす朝一番に来る手もある。とにかくあす(金曜日)ビザが手に入らなければポーランド入国はあきらめる他ない。
しかし辛抱する木に花咲くもので、いつの間にか来合わせていた30才くらいの日本人男性が私たちの事情を知り助けて下さったのである。経済政策の勉強で留学中のKというその人は館員と交渉をする。館員はシユンとなって私たちの方を向く。(K氏通訳)「ビザ代をドルで払うか」――M君は「はい」と言ったので館員は了承する。が、私は「西独マルクで」と言うと館員の顔がくもった。あわてて「ドルで」と言い直すとたちどころに納得し、私たちの書類とパスポー卜を持って奥へ入っていった。K氏もビザを取りに来たのだが、こんなに申請者が多い日は珍しい。少人数でやっているわけだし彼らはこれ以上仕事をしたくないから書類を受け取らないんだと説明してくれる。そして、「『君たちはどんな仕事をしているんだ。彼らは5時間も待っているんだぞ。君の名前はわかっているから、本国に手紙を書いてやるぞ』とおどしたんだ」。
わずか10分でビザはおりた。しかもパスポートを返すとき、あの冷たかった館員が私たち3人に、あいそよく握手を求めてきた。 ■ ベルリン・オスト駅22時6分発の列車でポーランドに向かう。列車としてはケルンが始発だが、私たちはベルリン・オストで増結するレニングラード行の車両に早めに乗り込んだので楽々とすわれた。ケルン発の編成が到着すると、席を求めて移ってくる人でこちらの編成も通路までいっぱいになった。”SANYO””SHARP””AKAI”などの段ボールをいくつもかかえた黒人が多い。
同じコンパートメントには、ワルシャワへ留学し農業技術を学んでいるナイジェリア人男性3人、旅の途中のルーマニア人夫婦とカナダ人男性、それにM君と私の計八人。
ポーランドに入国する時は列車内でも所持品検査があり、西側の雑誌は没収されるとガイドブック類には書かれているし、不正申告した日本人が強制労働としてジャガイモの皮むきを3日間させられたという噂も聞いた。本格的に東側に入るわけで、緊張する。が、入国審査はこれまでに体験したものと大差なく、1ケ月ヒゲを剃らずパスポートの写真と人相がやや変わっているので何か言われるかと身構えていた私は、拍子抜けした。
まずパスポートのチェック、8人それぞれ台帳と照合される。ブラックリストだろう。次に荷物の検査官が来たが、手前のひとりにパスポートを見せよと言い、「これは君の荷物か」と尋ねただけで、笑って「ビーダーゼーエン」と行ってしまった。その後しばらくして、所持金の申告用紙を持った係官が来た。昼行列車ならオルビス(国営旅行社)による強制両替があるのだが、夜行なので来なかった。
ポズナニ駅にて下車しクラコフ行の列車を待つ。1緒に降りたルーマニア人はグダニスクヘ行くと言う。ポーランドまで来ると、目に入る文字も耳に入る言葉も全く意味がわからない。ルーマニア人も難しいようで、”ポー・ルー辞典”なるものを取り出している。
類推できそうな気がするが、そういうものでもないらしい。彼らが去った後で、私はクラコフ行の発時刻を勘違いしていたことに気付いた。インフォメーションの女性(西独だとどこでもチャ一ミングで親切だったが、ここはそっけない。もう一度のぞいた時にはリンゴをかじりながら、そのリンゴで方角を教えていた)に発時刻を書いてもらう。英語は通じないが、「クラコフ」と呼び腕時計をトントンとすればわかってくれた。時刻はいいが、そのメモにRとある。
「指定席がある」の意味なのか「指定席しかない」(私たちはポーランド通貨を持っていないので指定席券を買えない)のかわからないので出札口(ここも深夜ながら女性)で尋ねるが、何を言ってくれているのか理解できない。
困っている私たちの様子を見ていたのだろう、大きな瞳の女性が話しかけてきた。これも理解できないが、しきりに「カウフェン」と言うので指定席券を買う必要があるのだろう。うなずくと、自分のお金で2枚買ってくれた。深夜なので両替もできず、手持ちの西独マルクを渡そうとするが頑として受け取らない。で、マウントフジの絵はがきと東ベルリンで買ったグレープフルーツをお礼に差し出し、「そんなことしてもらわなくても」という感じだったが押しつけてきた。旅先での親切はことのはか嬉しいものだ。
ポズナニから平原の鉄路を9時間、ポーランド有数の都市である古都クラコフに着く。オルビスでドルをポーランド通貨に両替(ビザ1日分につき15ドルの強制両替)したりしながら町を歩いていると、「ジャパニ−ズ? チェンジ・ダラー?」と声をかけてくる者がある。それ来なすった、闇ドル買いだ。正規のレートだと1ドルは約120ズウォチだが、闇で両替すればこの五倍くらいになる。
しかし東ベルリンで体験したように強制両替分を使いきるのさえ容易でないから、応じなかった。
ポーランドのひとり当たりのGNPは東独の2分の1余り、物の豊かさはちょうど東ベルリンの半分くらいという印象だ。が、公園でしつけの行き届いた犬を連れてくつろぐ家族連れなどを見ていると(訪れた3国に共通する光景だ)、市民社会の成熟度や心の豊かさを感じた(一方でしかし、3国とも徴兵制であることを記しておかねばならないが)。 ■ 25日、オシビエンチム(独語でアウシュビッツ)を訪れるためクラコフ駅前のバスターミナルに行く。切符売り場は混雑、オシビエンチム行の窓口はおなじみ行列だ。さて並んだものかと躊躇していると、「ジャパニーズ? アウシュビッツ、タクシー」と声がかかる。それ来なすった、闇ドルタクシーだ。往復で10ドルだと言う『地球の歩き方』の情報によると10ドルで相場なのだが値切ってやろうと交渉すると、まけないかわりに切符売り場に並んでいた日本人女性を見付けてきて3人で10ドルではと言う。きょとんとしている彼女にわけを話してタクシーを用いることにする。白タクかと思いきや、メーターのついた正規のタクシーだ。日本の感覚では、1日借り切って10ドル(約2400円)なら安いものだが、彼にとってキャッシュで10ドルというのは笑いが止まらないオイシイ収入に違いない。終始上機嫌だった。
軍服姿も含めて人でいっばいのタ一ミナルで堂々と声をかけてくる(小声だが)くらいだから、当局も黙認している感じだ。東ベルリンの大使館員の態度といい強制両替といい、政府自身のどから手が出るほどドルを欲しがっている。取り締まりきれるものでもなし、闇で手に入れたドルをドルショップ(西側の品を売る、ドルしか通用しない店が東欧にはある)で吐き出させる方が得策と当局は考えているのかもしれない。ポーランドの人がアウシュビッツに触れられたくないという拒否反応を示した話を、複数の日本人から聞いている。そのアウシュビッツヘ、ドルでタクシーを借り切って行くのは、うしろめたいのだが……。日本ならふた昔前の車ながら百キロで疾走し、1時間足らずでオシビエンチムの国立記念館(強制収容所跡)に着いた。
アウシュビッツ強制収容所は1940年に創設され、毒ガスによりユダヤ人の大量虐殺がおこなわれたところである。ドイツやその占領地域から貨車で運ばれてきたユダヤ人たちは、ここに到着するとすぐふるい分けられ、労働に耐えぬと判断された者は即ガス室へ導かれた。この選別で生き残った者も過酷な労働や伝染病により、衰弱死したりガス室送りとなっていった。生体実験に供された者もいた。丸四年の間に虐殺されたユダヤ人やポーランド人・ソ連兵捕虜は400万人以上、多い日には1万人を超えた。(フランクル「夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』〈みすず書房〉やへス自伝『アウシュヴィッツ収容所』〈サイマル出版会〉はリアルな記録である)
いま強制収容所跡は、毒ガス殺人がおこなわれた部屋も含めはとんどの建物が保存され、展示資料により収容者の生と死を伝えている。(無料)。ゲート脇の旧受付号棟では映画(20ズウォチ=約40円)や書籍類(英語版あり)・スライド等の販売をおこなっている。頼めばガイドもしてくれるようだ。くぐってゆくゲートに刻まれた文字は、「ARBEIT
MACHT FREI」
展示はダッハウの方が”洗練”されていたが、アウシュビッツには見る者を圧倒するそのものがあった。毒ガスの空缶の山やユダヤ人たちが没収された物の山――靴、鞄、ブラシ、めがね、義手義足、髪……。まさしく山である。靴にしても髪にしても、教室2杯分くらいの容量に感じた。むろんこれらはたまたま現存する分だけであり全没収品のごく一部、他は売却された。女性の髪はバイエルンの工場へ送られ、繊維の材料とされ服の裏地や敷物に利用された。
収容棟の並びの11番ブロック、外見はふつうの収容棟と似ているが”死のブロック”と呼ばれている。ここの中庭は銃殺の場だった。光の差さない半地下の独房(ガス室・餓死牢)へ足を踏み入れる時は息が詰まった。
アウシュビッツから3km離れたところにあるビルケナウ(ポーランド語でブジェジンカ)収容所跡は、広大な廃墟だ(ここにも行きたいと言うと2ドル追加された)。敷地は方形で、その一辺は10分では歩ききれない。最高時には14万人が収容(アウシュビッツは18000人程度)されていたくらいだ。残っているのは正門と一部の収容棟、有刺鉄線、正門から焼場へ一直線に続く線路。焼場・ガス室の跡はレンガが崩れたままの姿をさらしている。幾百万の人の命と魂を奪って40年前に破壊されたビルケナウ収容所、草におおわれた広大な廃墟は無言で人類の歴史を語っている。(昨秋刊行された『アウシュヴィッツの記録』〈三省堂〉は、アウシュビッツ・ビルケナウで目にするものの大部分を収めた写真集である)
人間が人間として取り扱われず生命が生命として顧慮されなかったのは、ダッハウ・アウシュビッツ・ビルケナウだけではない。日本が中国などでおこなったことは弁解の余地のない非人間的行為だ。 中国東北部に残る731部隊の跡地はまさに”アウシュビッツ”そのものだろう。こわいのは戦争そのものだけでなく、戦争に向かってゆく体制もだ。力の強い者・声の大きな者は目に見えないアウシュビッツの有刺鉄線を今日も着々と張っているかもしれない……。 |
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(C)島根大学『歴史学通信』編集委員会,
1998
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