| 歴史学通信 Vol.9 (1985/3) |
| ビザンツ世界に関する一考察
本田紀子 |
| はじめに
476年、西ローマ帝国は、ゲルマン人の侵入によって滅亡した。かつては、この時点をもって古代ローマ帝国は終わり、新しく中世暗黒時代が始まったのだと考えられていた。しかし現在にあっては、西ローマ帝国の存在が消えた476年以降にあっても、ローマ世界、つまりは地中海世界が存続したのだと考える。皇帝権の存続とは異なる次元、空間的分裂(1)として、ローマ世界の解体が論じられているのである。本稿においては、395年、テオドシウスの死後二分され、476年にローマ帝国が滅亡した後も、ローマ皇帝権を存続させていた東ローマ帝国の側から、ローマ世界の連続・断絶、つまりはビザンツ世界の成立について検討していきたいと思う。
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一般にビザンツ帝国は、330年のコンスタンチノーブルの誕生に始まり、1453年、この都市の、イスラム教徒トルコ人による征服によって滅亡したのだと考えられている。そしてこの帝国は、7世紀・11世紀の2つの転換点を境に、初期・中期・末期に三分されるのであるが、この点で ビザンツ的なるもの <絶対的な皇帝権力、整備された官僚制、都市の小商品生産者への国家の統制などをその特徴とする> は、中期ビザンツに最も典型的に見ることができる。そしてそれ以前、前期をビザンツ帝国の形成期として見、11世紀以降、末期をビザンツ的なるものの変質した世界としてみる。この中期から末期への移行期を一般にビザンツにおける「封建化」という。この「封建化」について、1960年から1968年にかけて、有名な封建制論争が展開された。(2)
「封建制」という概念は、西ヨーロッパの中世社会に基づいて構成されたものであることは、周知のことであるが、その概念でビザンツ末期の様々な社会現象が説明できるであろうか。論争の中心はこの点にあった。ビザンツ社会の「封建化」の指標とされる「プロノイア」(3)の法的、および歴史的性格の吟味、在地豪族の大土地所有の構造、また皇帝権の優越性という視点から、その論争は2つの立場に立って行われた。「封建制」の存在を肯定する側としてオストロゴルスキー、またその存在を否定する側としてルメルル、デルガーなどがあげられる。彼らによって展開されたこの論争は、1961年に最高潮に達したのち、その精彩を失うことになるのであるが、この論争の根底には、今なお存在する研究者のビザンツ帝国自体の捉え方の違いがあったのだと考えられる。その一方は、封建制の存在を説くことで、西欧との類似、ひいては西欧と同じようなビザンツ社会の発展を見ようとしているのであり、もう一方はビザンツ社会における封建制の存在を否定することで、中世ヨーロッパ社会とは異なる、そして対立するビザンツ社会、つまりは、ローマ帝国の延長上にあるビザンツ帝国を見ようとするものであった。果たして本当にビザンツ帝国は、ローマ帝国と連続した帝国であったのだろうか。それとも独自の内部で発展していく社会であったのだろうか。本稿におけるビザンツ世界の成立についての検討に先立って、まず問題提起として堀米庸三氏におけるビザンツ帝国の歴史的位置づけを紹介してみたいと思う。(4)
氏は4世紀から始まる、ゲルマン民族を含む諸民族の移動や侵入の全てを、ローマ帝国の衰退、すなわち地中海世界の分裂という歴史家庭に関連して起こった一連の出来事としてとらえる。そこにあってはビザンツ帝国は、古代地中海世界の中世への延長上にあったのだと考えるのである。そして、テマ制、プロノイア制のような、封建制と密接な関係で語られている制度も、古来の体制を部分的に補強するものにすぎないと見るのである。
堀米氏の考えるようであるならば、ビザンツ帝国は、ローマ帝国の衰退の一部であり、自己の発展は考えられないものになる。この見解が果たして肯定できるものであるかどうかを、本稿においては、ローマ帝国との絶断の点、つまりはローマ世界とは切り離して考えられるべきビザンツ世界の成立の存在を検討することから、アプローチしてみたいと思うのである。以下3つの問題に絞って、考察していきたいと思う。第一に歴史的世界としてのビザンツ世界の成立、第二にスラブ人の移住・定住、第三にテマ制の特徴と起源の問題である。(5)
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古代地中海世界とは、地中海を中心として統一された歴史的世界であるが、この世界を規定するものは、奴隷制とラテン文化に基づいたローマ帝国の支配と、そしてキリスト教であった。一般にこの古代地中海世界が、ローマ世界と呼ばれるのである。この地中海世界はしたがって、奴隷制の行き詰まり、ラテン分化の影響力の低下、正統信仰への反発という形を取って、その解体の特徴があらわれてくる。ローマ世界の内部は、しだいにラテン文化圏、ギリシア文化圏、オリエント文化圏に三分されていくのである。ローマ帝国の東西分裂は、その顕著なあらわれであるといえる。しかしこの世界は4世紀からの西方へのゲルマン部族の侵入、建国にもかかわらず、経済的・文化的に一体性を持もっていた。ユスチニアヌス帝時代の地中海全体にわたる支配、そしてラテン語における『ローマ法大全』の編纂は、ローマからコンスタンチノーブルへとこの世界の指導権が移ったといっても、まだラテン文化を基調としたローマ・地中海世界が存続していたことを証明しているのである。
しかし、ユスチニアヌス没後(515年)、この地中海世界は、新たな転換点をむかえることになる。皇帝はオリエント属州における政策、ラテン文化圏との提携によって、この世界の一体性を保持しようと努めるが、イスラム教徒アラブ人の地中海進出によって、最終的に解体するのである。ローマ世界の一部であったオリエント文化圏は、ローマ世界が規定としていたキリスト教とは全く異なるイスラム教の世界へとなっていく。636年にシリア、642年にエジプトが、アラブ人の支配下に入ってゆくのであった。そしてラテン文化圏もまたコンスタンチノーブルの支配から脱け出していく。691〜692年の宗教会議における皇帝と教皇の対立は、この両文化圏の分離を象徴している。そしてこのローマ教皇の権威とフランク王国の実力が結びついた時、西ヨーロッパ世界が成立するのである。すなわち8世紀において3つの新しい歴史的世界、イスラム世界、ビザンツ世界、西ヨーロッパ世界が成立すると考えられる。
地中海世界が統一されているうちは、ビザンツ帝国は、ローマ世界の延長上にある文化圏の1つにすぎないものと考えられる。よって東西分裂もビザンツ帝国の成立とは言えないのである。しかしこの世界が3つの世界と分かれた時、ビザンツはビザンツ独自の道を歩むようになる。そう考えるならばビザンツ世界は8世紀に成立したといえる。
この8世紀における新しい歴史的世界の誕生を論じた人物に、有名なH・ピレンヌがいるのであるが、以下、彼のテーゼを要約し、考察を深めていきたいと思う。(6)
彼はまず、ゲルマン民族の侵入、それに伴う西ローマ帝国の滅亡は、決して古代と中世との 期をなすような事件ではないとし、メロヴィング朝時代までは古代の延長上にあるとする。しかしカロリング朝が始まる8世紀半ばまでには、イスラム勢力の進出によって、メロヴィング朝とは、政治的・文化的に全く異なった社会が生まれるのであり、この時代がヨーロッパ世界の誕生の時代であるとする。そしてこれとともにヨーロッパ人は、地中海から内陸部メロヴィング朝へと、その関心を決定的に方向転換させるようになり、農業経済に専念するようになったと主張する。
以上のようなピレンヌテーゼにおける、メロヴィング朝時代とカロリング朝時代の断絶は、特に遠隔地商業の果たした役割を見ることによって規定されている。つまり、メロヴィング朝時代にあっては、東方物産の多量の輸入、後期ローマ帝国の本位貨幣であったソリドゥス金貨の流用により、地中海貿易の活発さが示されるのであるが、カロリング朝時代は、東方物産の市場からの消滅、シリア商人の活動の消滅、東方からの金の流入の停止により、現物経済へと変化していったと考えるのであった。
このピレンヌテーゼは、主にイスラム勢力への重視のしすぎという点から、さまざまな批判を受け、また、その後の実証的研究により商業上の個々の論点は、ほぼ論破されてしまったようである。(7)しかしこのピレンヌテーゼにおけるイスラム侵入の重視も経済的側面からの検討のみではなく、三つの歴史的世界の成立のプロセスとの密接なかかわりあいで見るならば、最初に述べたように、非常に重要な要素ではなかっただろうか。またピレンヌの言う「ヨーロッパ世界の誕生」は、コンスタンティノープルの側から見れば、ビザンツ世界の成立とみなしうるのではないか。
では、こうしてできたビザンツ世界は、ローマ世界を継承したものであったのか、それとも独自なものであったのか、以下ビザンツ世界内部から検討してみたいと思う。
3
イスラム教徒アラブ人の進出は三つの歴史的世界を形成する上で、大きな影響を与えたのであるが、ビザンツ世界においては、これとともにスラブ人の侵入、定住が重要な役割を果たしている。彼らは、ビザンツ世界の形成に外部から影響を与えただけでなく、ビザンツ世界を構成する一要素となるのであった。以下、ここでは、ビザンツ農村の形態の変化にあたえた、スラブ人の影響を見ていくことから、ローマ世界からビザンツ世界への内部的転換を見ていきたいと思う。(8)
スラブ人の大量移民は、七世紀後半、バルカン半島においておこったといわれているが、それ以前、つまり六世紀から七世紀のビザンツ農村における直接生産者は依然としてコロヌスであった。これは六世紀末の一連の皇帝立法によって確認される。このコロヌス制は果たして奴隷制の一変種であるか、それとも農奴制の第一段階であるかは、現在のところ見解は一致していない。しかしコロヌスが奴隷の農業人口の減少に伴う、農業生産性の低下を阻止しようとする帝国の対応策であったと見るならば、(9)コロヌス制は奴隷制の行き詰まりの表現であると考えられ、古代地中海世界=ローマ世界の解体の条件を準備したものであるとしても、新しい生産関係ではないとみなしうる。このコロヌスの存在は、七世紀にあっては、東方・北方からの異民族の侵入による混乱のための史料不足で、確認ができなくなる。そうしたのち七世紀後半から八世紀に成立したと思われる『農民法』においては、もはやコロヌスは見られなくなっているのである。主要な直接生産者は、ゲオールゴイと呼ばれる、土地所有農民となっていたのである。ビザンツにおいて一般に、農民はゲオールゴイと呼ばれているのであるが、七世紀後半以降において、それは土地所有農民を意味し、彼らは土地の処分権、移動の自由、そして裁判権を持っていた。彼らはテマ制の「農兵」と同じ社会層に属し、ビザンツ専制国家を支える基盤となったのである。これはローマ末期のコロヌスとは明らかに社会的性格の異なる農民であったのだ。もちろん彼らは土地所有者といっても、共同体を媒介とするものであった。以下、彼らによって構成された村落共同体を見ていこうと思う。
この共同体=村(コーリオン)は、原始的な性格を持ち、内的結合力は強く、個々の農民の私的所有は未熟であった。この点から、これはスラブ起原のものであったと言われている。よってこの時代に見られる自由な小土地所有農民と、彼らの構成する村落共同体という新しい社会構造は、スラブ人の侵入、定住によって、作られたのだとされる。しかしそれだからと言ってこの時代の農村の小土地所有農民は、スラブ的な共同体の中にだけ存在したのではない。スラブ人によって破壊された大土地経営のもとで窒息していたヘレニズム共同体もこの時代に新たな形で蘇ったと考えられるからである。(10)
このスラブ的な共同体制度は、以後ギリシア文化と接触したことで変質していく。つまり階級分解により、私的所有が発達していくのである。『農民法』においても、ゲオールゴイの用語が、土地所有者のみを表すのではなく、その中に、貧困化して自己の土地の耕作を隣人に委ねる「土地提供者」、隣人の土地を耕す「小作人」が含まれてくることから分かるのである。
以上のように、7世紀におけるスラブ人の侵入、定住は、古いコロヌス制の大所領を破壊したのみでなく、新たな共同体制度をもたらし、この地域の社会構造の変化に大きな影響を与えた。そしてそれは、ギリシア=ローマ文明との接触によって、階層分解、私的所有の発展をもたらすことになったのであった。
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最後に、8世紀に成立するビザンツ世界を主導する、国家の形成を、テマ制の形成から検討していきたいと思う。テマ制とは、軍事令官ストラテーゴスによる、行政・軍事の一括管理と農民兵制とを組み合わせたもので、一般に軍管区制と翻訳されているものである。この制度はまた、農兵が給与の代わりに一定面積の土地を与えられることに、その特徴を持つ。この『テマ』とは、元来ラテン語の『レギオ』に相当するギリシア語で、約4千人からなる軍隊を意味した。それが軍の駐留地を意味するようになり、その後、新しい属領統治の制度を意味するようになったのであった。(11)
このテマ制は、後期ローマ帝国における軍事、行政制度といかなる違いがあるのであろうか。まず第一に、後期ローマ時代においては、地方における軍事権と行政権は明瞭に区別され、一人の人物に両権が集中することがないように配慮されていた。また第二に、帝国軍兵士の多くは、ゲルマン人をはじめとするバルバロイ傭兵であった。そして彼らに対する給料の支払い、必需品の供給は、政府の重要な仕事となっていたのである。この2つの比較において、このビザンツ帝国のテマ制は、ローマ帝国時代の制度とは全く異なったものであるといえるのである。以下、形成期におけるテマ制の起源を検討することで、より考察を深めていきたいと思う。
このテマ制の起源の問題は、現在においても解決されていない問題なのであるが、この論争の発端は、オストロゴルスキーの説であった。彼は、コンスタンチノス7世の『テマについて』、及び、テオファネスの『年代記』に依拠しつつ、テマが611〜612年の間に、ヘラクレイオス帝により小アジアの特定な地域に作られたものだとした。しかしこのオストロゴルスキーの説は、史料の不十分さから、またその史料の解読をめぐって多くの批判を受けている。これらの論争の中で、現在においてはほぼ確定的であると思われているものは、まず第一に、この改革が一人の皇帝によりなされたものではないということ、第二に、611〜612年において成立したものではなく、7世紀後半から8世紀にかけて成立したのであり、それはアラブ人の侵入時であったということである。この点に留意すると、首都コンスタンチノーブルも陥落の危機にさらされているこの時期にあって、帝国政府の防衛力の及ばないような地方で、帝国からの政策としてテマ制が導入されたと考えるのは、極めて非現実的であろう。それは帝国から導入された政策というより、地方都市の、防衛能力を持つ都市の有力者が、文武両権を把握する過程で形成されたと考える方がベターである。そして帝国が、異民族の侵入の危機から免れた時、この自主的なテマは、帝国の制度として体制化されたいったのではないか。そしてこうして1つの制度となった時、テマは史料としてあらわれてくるのである。
以上のように、この制度の起源を7〜8世紀とみなし、それを地方の都市の側からの対応策であったと考えるとき、テマ制はローマの制度の漸次的変化によって生まれたものではなく、ローマ制度の解体時に地方的な組織として作られたものであることが理解される。そしてこのテマ制に基づいて再建された国家は、ローマ帝国とは全く異なる国家であったのである。つまり、ビザンツ帝国は、7〜8世紀の混乱以後、新たな国家として成立するのであった。
5
以上、おおざっぱではあるが、井上浩一氏の見解に依拠しつつ、7・8世紀におけるビザンツ世界の成立を3つの問題から検討してみた。3つの視点からのみ述べることは非常に乱暴であるという缶は免れないのであるが、またそれぞれにおける論の運びも、勉強不足のゆえ不十分であると思うが、以下、ビザンツ世界の成立についてまとめてみたいと思う。
従来、330年のコンスタンティノーブルの誕生をもって、その成立とされるビザンツ帝国は、その時代にあってはまだ地中海を中心としたローマ世界の中の1つの文化圏にすぎなかった。しかしイスラム教徒アラブ人の侵入によって、この世界は完全に解体し、西ヨーロッパ世界、ビザンツ世界、イスラム世界という、3つの新しい歴史的世界が誕生するのである。そしてこのビザンツ帝国は、スラブ人の侵入・定住により、後期ローマ帝国の制度、都市が破壊され、新しいスラブ的な共同体を基盤にもった農村社会へと転換していくのであった。このような状況の中で、国家も新しく変わるのであった。ビザンツ帝国のテマ制は、行政・軍事の一括管理、農民兵制、そして地方から新たに生み出されたものであることから、ローマ帝国の制度とは全くことなるものであったといえるのである。
このように考えるならば、ビザンツ帝国をローマ帝国の連続として、またローマ世界の衰退の一部として捉えることには、問題があると思われる。7世紀におけるイスラム教徒アラブ人の侵入によって地中海世界が解体し、新たな3つの歴史的世界が誕生したとき、実質的には、ローマ帝国の延長上にあった東ローマ帝国の姿は、消えたのである。そしてこの7世紀の危機の中から、新しい国家としてのビザンツ帝国が生まれたのだと考えられるのである。
註
(1) 井上智男『地中海世界史』(清水弘文堂書房 1968年)参照 (2) 赤沢計真「最近のビザンツ史研究の動向」(『歴史評論』343号 1978年)赤沢計真「封建制の形成と解体」3の(3)「ビザンツ封建制論争」(『現代歴史学の成果と課題』 青木書店 1974年)参照 (3) ビザンツ帝国後期の土地制度。一定の奉仕義務への代償として皇帝が一部有地の租税徴収権、用益権を授与するものである。 (4) 堀米庸三「総説」(『岩波講座世界歴史』中世1 1969年) (5) 井上浩一「ビザンツ世界の成立」(『ビザンツ帝国』 1982年)本稿はこの論文によって論を進める。 (6) ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニュ』(創文社 1960年)参照 (7) 平城照介「イスラムの発展と地中海世界」(『岩波講座世界歴史』中世1 1969年) (8) 井上氏の前掲書 『ビザンツ帝国』参照 (9) 浅香正「大土地所有の発展とコロナート制の成立」(『岩波講座世界歴史』古代2 1969年)参照 (10) 太田秀通「展望」(『東地中海世界 古代におけるオリエントとギリシア』1977年) (11)和田廣「東ローマ世界と西欧」(『西欧と世界』1981年)米田治泰「ビザンツ世界の国家と経済」(『岩波講座世界歴史』中世1
1969年)
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